2012年12月29日土曜日

今月の一冊 粕谷知世「終わり続ける世界のなかで」

今月の一冊と題名をつけておきながら複数冊に及ぶかもしれへんし、

その月は一冊もふれることなく、なんてこともありうる雑記の

いちコンテンツの第一弾が一年前に出版されたこの作品というのは、

かゆいところに手が届かない俺ならではと言えなくもない。

 

でもこの本はね、

存在を知ったときから読みたくて読みたくてうずうずしていたのですよ。

 

以前から信仰や宗教組織、さらにはそこから先鋭化していったカルト、

カルトが用いる洗脳という手段に興味があって、

そういった本を書くべくいろいろと調べて、

いざ書き始めたら当初の意図とはまったく違う方向へ流れていった挙句、

とある公募賞に応募して一次落ちだったという過去を持っているわたくし。

 

だからこの本のあらすじを見たときから、これは読みたい!と。

 

受賞が決まったあとは、

お会いできるやもしれんし授賞式までには読んでおきたいと強く思っていながら、

手元にあるにもかかわらず時間の都合がつかずに読めなかったのは、

今思うと本当に残念。

 

実際に読んでみると、

あらすじから想像していた物語とはちょっと違っていたけど、

細部のこだわりがね、たまらないんですよ。

 

ノストラダムスの予言の影響下にあり、

「はだしのゲン」の直接的な刺激で幻覚を見るようになったくだりは、

統合失調症の前兆かと思わせるぐらい生々しくて、

症状は異なるけどダニエル・キイス「預言」に出てきた少女を思いだしてしまったり。

「預言」の少女は、その描写が徹底して重いもんやから、

さすがにこれは無理、俺には背負いきれんと頭を抱えてしまうぐらいやったけど、

この物語の主人公「伊吹」はそこまでではなく、でも危ういところに立っていて、

この危うさを背負いながら作中でいうところの黄金時代を経ているからこそ、

二章「世界救済委員会」と三章「私家版聖書」のくだりが(語り口は淡々としているけれど)

強烈な熱を持って迫ってくるんですよね。

 

 

二章「世界救済委員会」での検証会。

これなんかはまさしく洗脳を解くためのカウンセリングの手法そのもので、

洗脳された相手に矛盾点をひとつずつつきつけて

根気よく向かい合わなくちゃいけないのを、

物語上の嘘を盛りこむことなく徹底的に描かれていて、

特に矛盾をつきつけられた際の反発とか、

信じていたものを完全に否定されてその場から逃げ出したいがための表面的な迎合とか、

それを見越して続けようとする検証会って流れが、

なんかもうぞくぞくして。

 

二章を経ての三章「私家版聖書」では

おそらく誰もが一度は考えるはずなのに、

日々に忙殺されたり重大な責任を背負って余裕がなくなったり守るものができたりして、

いつのまにか考えなくなって、ふと思いだしたときに青臭かったで済ませてしまう

「生きる意味」とか「生まれた意味」について論じ合うわけですが、

哲学にも神秘主義にも、ましてや有神論にも、汎神論にすら逃げず、

読者と地続きの日常を生きている登場人物たちの言葉と考え方でもって書かれていて、

ぶつかったり迷ったりしながら結論を出そうともがいているここの勢いがすごい。

一気に読む速度があがったし、完全にひきこまれた。

 

しかしそれで終わらせないところがこの物語のおもしろいところ。

 

序盤の幻覚がノストラダムスとか「はだしのゲン」ではなく

現実的な誰かの影響だったりしたら変性意識状態にまでつながって、

そしたら伊吹のその後の宗教観は変わっていただろうし

物語も大きく変貌していたやろうなあ、

なんてことを読みながら何となく思っていたら、

まさしく変性意識状態を(作中には書かれていないけど

おそらく薬物投与や極限のストレス環境において)経験した登場人物が出てきて、

危ういながらも(そして本当の意味で持ち直しているとは言えないながらも)

日常を生きてきた伊吹とその登場人物との正面衝突によって物語がねじれてきて、

ひょっとしてひょっとするのか、危ういだけで済んでいたのがそっちに転がってしまうのかと、

はらはらしながら読んでいたら持ち直してなんかいなかった日常そのものが崩壊。

 

じゃあこの物語はどこへ向かっていくんやろと興味が半分、

不安も半分で読み進めてみたらハイライトP340一行目から三行目にたどり着いて。

 

俺、ショックで一回本を閉じてもた。

 

これなんよ。

こんな感じの追体験をしてほしくて俺は本を書いてるんよ。

俺の場合は現実を忘れて楽しんでもらうことが目的やけど、

こういうふうに感じてほしいんよ。同一化してほしいんよ。

小説のおもしろさってのはそこにあると俺は信じてるんよ。

そんなふうに楽しんでもらえて初めて俺はこれからも書かせてもらえるんやもの。

などと思わされて、それが衝撃的で。

 

この部分の文章はもったいないから記さないでおくけど、

ある媒体によって個が一定の共通化をするとして、

その媒体が強すぎたため同一化がいきすぎて集団意識が暴発するのではなく、

眼を離すだけで共通化が解かれてしまう脆弱な媒体でありながら

個をつなぎとめうるものだとすれば、それはあやふやだけど

現代的な救いと言えるのかな、と。

 

物語においても現実においても世界は終わり続けて、

そこに救いはなくて、苦しみながらも続くであろうもので、

でもこの作品では帰結するところを世界の終わりとか生きる意味とか

実在の定義みたいなものとか主観と客観、他者と自分との断絶、

そういった主題とは別の、どこにでもある日常の、

どこででもやり取りされる会話で締めくくられていて、

それがまた絶妙な救いで、もしこういう何気ない言葉によって共通化、

と言うとややこしくなるけど、他者がわかりあえるなら

すてきやんね、と。

 

この終わらせ方はすごく好きやったりする。

痛みも苦みもある物語やけど温かく優しい読後感でした。読んでよかった。

 

よかったけど、やっぱり授賞式までに読んでおくべきやった。

そのことを悔いるばかりなり。

 

読み終えてからふと、授賞式でお会いしたとき粕谷さんに、

たしかこんな感じやったかな、

「宗教とか洗脳とかに興味があって「終わり続ける〜」を読んでからここに来たかったんです」

などと話しかけたら、

あれはそういうのではなくて、みたいにちょっと戸惑われた表情をされたのを思いだしました。

なんか、俺の頭の中では、作中で迷っているときの伊吹と重なってしまったり。

 

ちなみに、授賞式後の二次会のさらにあと、

三次会というほどではないけど、

歴代受賞者の方がたと喫茶店でいろいろと話をして、

じゃあこれでとお開きになったとき、

土地勘のない俺に宿泊場所までの道順を教えてくれたのは堀川アサコさんと粕谷さんで、

方向が同じだった粕谷さんには最後の最後、東京駅まで導いていただきました。

この場を借りて御礼申し上げます。

 

だからこんな文章を書いたってわけじゃないけれど。