2013年3月26日火曜日

今週の一枚(二枚目) A HERO FOR THE WORLD「A HERO FOR THE WORLD」

 香港のJacob K Musicから送られてきた、

プロジェクトと言うべきかバンドと言うべきか、の1stアルバム。

メタルがやりたくてたまらないという気持ちがこれでもかと溢れているアルバム。

 

ジャケットはプライマル・フィアなんかを手がけたらしいブラジルの方の絵で、

筋骨隆々な戦士の背中がどこからどう見てもマノウォー。

笑ってしまうぐらいにマノウォー。

歌の合間に「はっ!」とか「ふっ!」とか入るのもマノウォー。

たま〜にエリック・アダムスっぽい歌い方になるのもマノウォー。

 

なのだけれど、やりたいことはマノウォーというよりもっと王道のメロディックメタルなんかな。

マノウォーの、偽物を一切寄せつけない凄まじい暑苦しさ(最上級の誉め言葉です)を期待すると

ちょいと肩透かしを食らうかも。

音楽的にも歌唱という意味でもマノウォーっぽい曲は#9ぐらいやし、

それも完全にマノウォーのパクリ、昨今ではオマージュなどという言葉ではぐらかされるあれね、

ああいう意味ではなくちょっと影響を受けている範疇。

 

音としてはストラトヴァリウスの「インフィニット」アルバム、

ようするに「ハンティング・ハイ・アンド・ロー」タイプの曲が基本としてあり、

曲によっては壮大な展開、曲によっては複雑な転調、曲によってはアイルランド民謡かな、

民族音楽っぽさも(メタルバンドが味つけで入れる程度に)入ってます。

 

このバンド、ギターもドラムも超絶テクプレイヤーやけど、

最大の武器であり可能性はヴォーカルの秘められた力かな。

 

送られてきた情報によるとこのヴォーカルは4オクターブが出るとのこと。

そんなんはどうでもいいです。

シャウトではエリック・アダムスを意識しているし、

力んだハイトーンはアンドレ・マトスっぽくなるし、

いくら4オクターブでも高いところは無理してるやんと言いたくなるし、

力を抜いた低い声がけっこうかっこういいんやからそっちをもっと使えよと言いたくなったりもするけど、

いちばんの魅力は力まず伸びやかに歌ったときスティーブ・ペリーのような雰囲気になること。

 

それが如実に現れるのが#1

この曲はメロディックメタルファンに聴いてほしい。

聴く場所もきっかけもないやろうけど、もしできうるならば聴いてほしい。

 

曲調自体はアップテンポの、はっきり言うとありがちなメロディックメタルソングなんやけど、

Bメロだけアメリカン・プログレ・ハード(死語すぎて通用せんかな?)の匂いがぷんぷんしてて

そこに前述のスティーブ・ペリーっぽい高音やもの。

いや、驚いた。

 

この手法でメタルをやっているヒトは、

俺が知っているかぎりでやけどヨルン・ランデぐらいちゃうかな。

ヨルン・ランデがメタルの「らしさ」とは異なるサビメロを持ちこんだことにより

完成度という意味で大成功したMASTERPLANの名曲「スピリット・ネバー・ダイ」。

あれを彷彿とさせる格好よさがあって、これは個性になる。間違いなく。

 

ストラトヴァリウスを聴けばいいやん、とか、

ソナタアークティカで事足りるやん、と言いたくなることの多いメタルシーンにおいて、

確固たる個性が出せるのは実はけっこう難しくめずらしくて、

だから俺みたいなのは可能性って意味も含めてニヤニヤしてしまうわけです。

 

このニヤニヤを他のメタルマニアにも共有してほしい。

俺と同じようにニヤニヤしてほしい。

ゆえにここで取り上げたわけです。

 

他の曲も完成度は高くて、

アイリッシュなバラード#3や荘厳な#5#9

直球メタルソングでは#2や#7なんかも揃っているけれど、

やっぱり#1、それと#4やね

 

他の曲は典型的なメロディックメタルソングに

マノウォー風味とか複雑な展開とかでスパイスを効かせているから、

もしかしたら#1は偶然の産物なのかもしれんけど、

いや、狙わんとあのBメロをあそこに放りこもうとはならんはず。

そう信じたい。

 

このプロジェクトがいい意味でのジャーニーっぽいメロディを模倣にならず自分のものにできて、

それをメタルの土台にぶちまけて個性にすることができたら、

おそらく大きく化けるんちゃうかなあ。

そっちの期待をしてしまわずにはいられないのは、

やっぱり根底に流れる俺の血がこういうのを欲しているから。

 

本音を言うと最初はあなどってましたよ。

うちみたいな日本語オンリーの、ちっぽけな規模のウェブサイトをわざわざ見つけて

プロモデータへのアドレスを送りつけてくるんやもん。

 

ありがちなインディーズ音源なんやろなぐらいにしか思ってなくて、

酒飲みのネタにはなるかとプロモデータを落としてみたら、

MP3とはいえフルアルバム分あって、ジャケットや歌詞もPDFで収められていて、

デザインもちゃんとしていて、

音質もきちんとプロ作品としてできていて、

そして#1やったからね。

 

現時点では好事家向けのアイテムやし、

俺のように日本発売に合わせて作品を追いかけている程度のメタルファンには眼を向けにくいものやけれど、

3/29発売、iTunes Storeでも販売されるようなのでこれを機によろしければ。

今週の一枚 SEREBRO「MAMA LOVER」

ユーロヴィジョンコンテストの受賞などで

海外ではすでにどえらく売れているらしい美女三人グループのアルバム。

日本盤は「セレブレーション」というアルバムタイトルらしいけれど

当方が手に入れたのは輸入版なのでこのタイトル。

曲順も異なっているけど収録曲そのものはほぼ同じ、だと思うので、

今回は#1みたいな表記じゃなく曲名で(ただし英語タイトルなので読みづらくなりますご注意を)。

 

日本デビューということで、

最近CSの音楽専門チャンネルで「Mama Lover」のPVが流れ始めたの観たのがきっかけ。

あの、これがですね、もう正気じゃないんですわ。

 

美女三がドライブを楽しんでいて車中で暴れつつ歌うという作りで、カメラは定点。一人は運転。

三人グループやから一人は後部座席でほとんど見えないというお粗末な構図。

問題は助手席にいる、センターでありリードヴォーカルをつとめる彼女。

はしゃぎしすぎて、脚を広げっぱなし。パンツが見えるどころやあれへん。モザイクがかかっている始末。

えっ中身が見えてんの? このヒトらって容姿端麗やし、一応アイドルちゃうの? これ、ええの?

 

その感じが、

セクシーアイドル的な、あからさまに男(の特定の部位)を刺激する色気やら煽りではなく、

男がおらんときの女性はこうやねんでぇと見せつけられているような、

けっして男に色気を感じさせる類ではなく、

むしろ男がひきかねないほどの開けっぴろげな赤裸々さでして、

アイドル?と首を傾げたくなる奔放っぷりに惹かれたのがひとつ。

 

で、まあ調べたらこのグループってロシア産なのね。

ロシアのアイドルといえば、各方面でお騒がせ二人組としておなじみとなり、

おなじみのまま干されて消えたt.A.T.u。

 

あれをどうしても思いだしてしまうわけですし、

Mama Lover」の無茶なつくりも方法論こそ違えどt.A.T.uのように話題性で火をつける手段なんやろかと、

穿った見方をしてしまいがちやけれど(実際にそういう側面もあるやろうけれど)、

特筆すべきは歌唱力。

 

リードヴォーカルの彼女。

ハスキーなブリトニーというべきか、

もしロックをやっていたらアン・ウィルソンのようになっていたというべきか(例えが古い)、

かすれた声がなかなかに好みでして。

 

ユーロヴィジョンコンテストは、

LORDIとかの飛び道具もたまに選ばれたりしてるけど、

ちゃんとした演奏力が伴っていないと取ることはできないものだと思うのです。

放送では歌わなあかんしね。

 

そのステージにおいて堂々と、

完成度の高いパフォーマンスを見せつけたこともあり、

なかなかにおもしろいグループやなとアルバムを購入した次第。

 

曲調は曲調で、

ある意味で正気かと疑いたくなるほどのふる〜いダンスミュージック。

音の選び方とかアレンジとか、80年代風じゃなく、そのまんま80年代。

ユーロビートとして先鋭化する前のダンスミュージックそのもの。

 

Mama Lover」は音が何となくゴーストバスターズやし、

Angel Kiss」の流麗な歌メロとの掛け合いで入るキーボードの安い音とか、

Gun」のイントロからバスドラムへ入るお約束な感じとか。

 

そういう曲調と、前述のあけっぴろげな部分とがあいまって、

言葉は悪いけどイモ臭くてね。

けっしてアメリカのスーパースターな女性シンガーにはない要素で、

ちょっとした親近感すら抱くことができて、おそらくそれは愛される要素になりうるわけで、

個人的にはそういうのがとてもおもしろく。

 

おそらく今後、そこらじゅうで「Mama Lover」が流れるでしょう。

他にもユーロヴィジョンでも歌われたハードなダンスナンバー「Song#1」、

個人的に好きな「Angel Kiss」とかいい感じの曲がありますので、

そのあたりを聴いて食指が動いた方は

アルバム本編も楽しめるはず。お試しを。

 

それはそれとして、最後にひとり言。

 

Mama Lover」の邦題は「恋はママラバ」だそうです。

いや、ええねんけどさ。

ええねんけど。

ねえ。

 

ピンポイントでこういうのが受ける層にアピールしようとして、

結果としてそういう層にもそれ以外の層にもアピールできなくなる危険性もはらんだこの邦題。

自ら陳腐化を図ってやしませんかね。

 

少なくともt.A.T.uのような話題性だけで終わらせるにはもったいないグループだと思うんだ、俺は。

もちろん今後がどうなるかなんて本人やスタッフの努力にかかってるわけやし、

人気商売なんぞ波がひくときは一瞬で抗いようもないんやろうけど、

そういう邦題をつけるのは

仕掛ける側がアーティストを消費材に追いやるきっかけになりやせんか、と。

ヨーロッパや本国ロシアでは人気が持続していいアルバムを出し続けているのに

日本では「あのヒトは今」みたいな扱いにしかねんのちゃうか、と。

 

年食ったおっさんはそんなことをつぶやきたくもなるのです。

2013年3月19日火曜日

今週の一枚 DAVID BOWIE「THE NEXT DAY」

正直に言いますと、

デヴィッド・ボウイについて語るべき言葉を俺は持ち合わせていません。

というのも、ほとんど接してこなかったから。

 

アルバムとして聴いたのは「ジギー・スターダスト」くらいで、

しかもその印象はというと、

「スペース・オディティ」の、どうしようもなく絶望的なんだけれど、

他者との拒絶という意味でどこか共感せざるをえない歌詞に感銘を受けた、ぐらいしか残っておらず。

 

あとは80'sの

「レッツダンス」とか「チャイナガール」とか「モダンラブ」とかを、

たまたま耳にしたり80'sのPV特集みたいなので観たぐらい。

 

それと、デヴィッド・ボウイの曲でいちばん耳に残っているのが「デッドマン・ウォーキング」だったりしまして、

昔からのファンからすれば俺なんぞ話にならんわけです。

 

だって「デッドマン・ウォーキング」って、

いくらデヴィッド・ボウイが時代に合わせてキャラクターと音を変える

カメレオンと呼ばれたりするアーティストとはいえ、

それはないやろというダンスチューンやからね(でも異様に耳に残って俺は好き)。

 

そんな俺がなぜデヴィッド・ボウイのアルバムを買ったかというと、

リードトラック#5を聴いてしまったから。

 

この曲は、静かなのにとてつもなく強烈で、

あまりにも儚く脆く、消えそうな蝋燭の火みたいに頼りないのに、

じわりと浸食してきます。そして突き刺さって抜けなくなります。なりました。

 

おおげさに聞こえるかな。

この曲には、震える、という言葉が似合う。

 

あえて例えるなら現代的な、

あるいは現在の年齢になって達観したデヴィッド・ボウイによる

「スペース・オディティ」の第二章、と言えるのやも。

歌詞の内容というより音楽的な意味でね。

 

そんな#5に惹かれてこのアルバムを手にしたわけですが、

60's後半から70's、さらに80'sにかけての音を再現しているというのが第一印象。

 

だって#1と#2なんか、もろ70'sやし、

#3とか#4なんかは(特にベースラインが)80'sですもん。

 

個人的には#3と#4に代表される80's路線がおもいっきり好み。

#3はイントロだけでぞくぞくしたし、#4はアレンジと歌がね。

色合いの薄い映像とか、夜明けの街を歩いている男とか、

ハードボイルドな雰囲気を連想してしまって。

タイプは違うけれどa-haのハードな楽曲とか、あの感じ。

こういうのに弱いのよ。

 

#3を80's路線と言ってしまうのはちょっと違うのかもしれへんけどね。

80'sのデヴィッド・ボウイの代表曲である「レッツダンス」とかのポップサウンドではないから。

 

ベースラインから80'sという言葉で表現しているけど、

ひょっとしたらこういう曲は70'sにやっているのかもしれません。

そのあたりの正確性に欠けるとことか知識のなさは、

ろくに聴いてなかったモンのたわ言として右から左に流してください。

 

あとは、こっちはまちがいなく80'sなんやけど

随所に現れる変態的なアレンジとすばらしいフックが奇妙に同居してる#11とかは、

ギターソロがまさに、やし、

変態的という意味なら#7が際立っているかな。

エキセントリックでサイケデリックで、ばりばりのプログレッシブロックで。

 

まあ文句なしにいいのは前述の#5なんやけどね。

 

その#5もひっくるめてアルバムとしての感想は、

ひとしきり呑んだあとで流していたいアルバムといったところかな。

 

あくまで

デヴィッド・ボウイのアルバムとしてどうかということを論じるだけの材料と情報がない俺の感想です。

 

ちなみにこのアルバム、高いほうと安いほうがあるけれど、

高いほうに追加されてる三曲がなかなかに完成度が高く、

特に#17がかなり好きなので、高いほうをお奨めしときます。

2013年3月11日月曜日

今月の一冊 ジャック・ケルアック&ウィリアム・バロウズ「そしてカバたちはタンクで茹で死に」

まず前提条件として明確にしておかなくてはいけないのは、

この物語の基となったルシアン・カーとデヴィッド・カラマーの「ビートを生みだした殺人事件」なるものについて、

さらにはビートジェネレーションというものについて俺はまったく知らないということ。

 

この本を手に取った理由は奇妙なタイトル。

いや、カバがタンクで茹で死ぬて。

それだけでどうかしてるやん。

 

読もうと思ったのは第一章で、登場人物の一人、フィリップ・トゥリアンが知ったふうに

「無駄は悪で創造は善だという発想に基づいた一大哲学を考案したんだ」としゃべるのに対し、

語り手であるウィル・デニソンが「無駄と創造を見分ける基準はどこにあるんだい?」と

あっさり論破してしまうところ。

 

この物語は終始こんな感じで、ろくでもない連中がだらだらと生きてて、

ろくでもないことをしでかすだけだったりするけど、

そのろくでもなさがこの時代ならではなのかなと。

わざとらしい誇張はなく、退廃とか暴力を演出として過剰に見せつけているわけでもなく、

心の底から駄目な奴らの漫然とした日常があって、

これが新鮮に思えたんよね。

 

固有名詞は変えているし、事件の顛末も現実とは異なっているみたいやけど、

二人の語り手であるウィル・デニソンとマイク・ライコーの立場は

まんまウィリアム・バロウズとジャック・ケルアックで、

自身の経験やらに裏打ちされたからこその

説得力あるろくでなしどもの描写なのかなとも思ったり。

 

でも小説としてどうかと言うと、

訳者あとがきに「小説的な処理はまったくない」と書かれているのも納得の様々な不備があって、

特に「ぼくは言った」の連発は、さすがにきつかった。

 

じゃあなんでそんな小説を取り上げたかと言うと、

終盤の味わい深さゆえ。

 

ビートを生んだ殺人事件という説明でもわかるように

物語は現実同様、最後は殺人へ行き着きます。

 

この小説の肝は、殺人が起こってから自首までの、空白の二十四時間。

 

ろくでなしで駄目で、

生きるということを舐めてるとしか思えんくそったれどもの一人、フィリップ・トゥリアンは、

自らしでかした殺人という重みを直視せず、

何事もなかったかのように、

あるいはまるで夢であればいいのにと言いたげに二十四時間を、

ただただ無為に過ごします。

 

過ごすんやけどさ。

 

無意味な時間を過ごしても、からっぽな強がりをひけらかしても、

結果としてこうせざるをえないと諦めるにいたって、

その瞬間の、奥底にある脆さとか弱さとかに、

胸を打たれてしまったんですよ。

 

終盤にいたってもやっぱり小説的な処理がなされていない文章やけど、

であるがゆえに感情が乏しく、

取り返しのつかない現実を前にして

取り返しがつかないからこその呆然とした雰囲気が絶妙に表現されていて、

なるほど平易な文章はこの終盤のためだったのか、とも思ってしまったり。

 

もしそうであるなら、

いやどうやら偶然の産物らしいけど、

抜群の効果を生んでいて、

たまらない読後感をもたらしてくれます。

 

俺が読んでいるのは日本語に訳されたものなので、

訳者の方の力に依拠してるのかも、やけど。

 

娯楽性はほとんどあれへんし、

ろくでなしどもの日常を綴る中盤のだらだらっぷりに途中で読むのやめよかなあと何度も思ったし、

おもろい!とか、よかった!と断言するには何かが邪魔をする小説で、

他人には勧められへんけれど、

読んでよかったなと思える一冊でした。

 

 

 

2013年3月8日金曜日

松竹新喜劇を観ての感想。

松竹新喜劇は、子どもの頃に一度だけ観たことがあるような気がする。

ひょっとしたら違うもんやったんかもしれへんけど、

頭の片隅に人情喜劇を観たという記憶がある。

 

どっちにしろ、ほとんど接してこなかったということに代わりはなく。

 

今回「お種と仙太郎」という演目を、若手を中心とした役者さんでおこなうとのことで、

その若手に昔の仲間が含まれていたので久々の観劇、となりまして。

 

でも昔の仲間が出ているからとか、身内の発表会にはせ参じた感覚は、

座席に着いた瞬間に消えてたね。

そこはそれ、京都南座やもん。

開演前の舞台や客席に漂う空気は現実と異質で、

そこには当然のこと、表の四条河原町の雑然とした雰囲気はまったくなくて、

飲まれたというか、ひきこまれたというか、

金を払ってお芝居を観てるんやなあ、という気持ちにいつのまにかなってたな。

 

で、そのお芝居ですが二部構成で、

一部は松竹新喜劇の代表、渋谷天外さんによる松竹新喜劇の歴史についての説明や

喜劇の体験ができるというちょっとした企画もの。

二部が若手を中心としたお芝居、という流れ。

 

感じたのは「お種と仙太郎」という演目の魅力の深さ。

 

話そのものは簡潔。

主題は、他人のふり見て我がふり直せ。

 

嫁いびりをする団子屋お岩のあまりのやりように、

丹波屋おせいがお岩の眼の前で同じように嫁いびりをして、

お岩のやっていることがいかにむちゃくちゃかを悟らせよう、というもの。

 

喜劇としての笑いどころは、

何かと難癖をつけるお岩の奇妙奇天烈な言動やら行動を、

おせいがそっくりそのままやってのけ、場合によっては誇張して、

その動きやら血管が切れそうなわめきちらしっぷりを再現するところ

反復のおもしろみってやつやね。

 

この筋を知っているか否かで楽しさがずいぶん変わります。

 

筋を知っておけば、

中盤のお岩の嫁いびりではどんだけ無茶な球を投げんねやろ、とニヤニヤしたり、

そのむちゃくちゃに投げられた球を丹波屋おせいの役者さんは

どんな躍動感でもって打ち返すんやろと期待することができて、

そのあたりを楽しむのがこの演目の醍醐味なんかなと観ていて感じた次第。

 

それだけでなく、

役者さんによって投げあう球の速度も球種も違うわけやから、

配役が変わるごとに魅力が変わる、

くり返しの観劇に耐えられる、

むしろくり返しの観劇でこそ映える演目なのかな、と。

 

人情喜劇をほとんど観たことがない俺にすら、

お岩役とおせい役の、役者間の火花が散るようなアドリブ合戦によって

とんでもない舞台になるんちゃうかな、であるならこの演目をもっと観てみたいぞ、

と思わせてくれる魅力的な演目やったもの。

 

なるほど固定のお客さんがついて愛され続けるわけやなと納得しきり。

 

南座での公演はこの週末までということなので、

お時間とご興味ある方はぜひ。

 

最後に、ごくごく私的な追記を。

 

松竹新喜劇の表現にはどうやら体系だった理論に基づいた節があるらしく、

声の出し方や言い回し、立ち居振る舞いなど、

底のところで似たお芝居をする役者さんが何名かいらしたけど、

根底の基本ができたうえで自分の動き、自分の空気、自分の節がなければ

ここでは生きていかれへんねやろなあということを、

今回の観劇でなんとなく想像できて。

 

今回の演目でいうなら、

お岩役の方と、おせい役の方が表現において際立っていて、

こういう役者さんを観るためお客さんは足しげく通うんやろなあ、と。

 

俺の昔の仲間はその厳しい世界で修行をしていて、

代表である渋谷天外さんのすぐ近くで学んでいるわけで、

そいつに一言。

 

今後、

自分にしかできんものをめいっぱい発散して、

名前を売るだけ売って、

本公演でいい役をもらえたら、

また観に行った挙句、

迷惑極まりない勢いで楽屋に押しかけるから、そのつもりで。