2013年3月11日月曜日

今月の一冊 ジャック・ケルアック&ウィリアム・バロウズ「そしてカバたちはタンクで茹で死に」

まず前提条件として明確にしておかなくてはいけないのは、

この物語の基となったルシアン・カーとデヴィッド・カラマーの「ビートを生みだした殺人事件」なるものについて、

さらにはビートジェネレーションというものについて俺はまったく知らないということ。

 

この本を手に取った理由は奇妙なタイトル。

いや、カバがタンクで茹で死ぬて。

それだけでどうかしてるやん。

 

読もうと思ったのは第一章で、登場人物の一人、フィリップ・トゥリアンが知ったふうに

「無駄は悪で創造は善だという発想に基づいた一大哲学を考案したんだ」としゃべるのに対し、

語り手であるウィル・デニソンが「無駄と創造を見分ける基準はどこにあるんだい?」と

あっさり論破してしまうところ。

 

この物語は終始こんな感じで、ろくでもない連中がだらだらと生きてて、

ろくでもないことをしでかすだけだったりするけど、

そのろくでもなさがこの時代ならではなのかなと。

わざとらしい誇張はなく、退廃とか暴力を演出として過剰に見せつけているわけでもなく、

心の底から駄目な奴らの漫然とした日常があって、

これが新鮮に思えたんよね。

 

固有名詞は変えているし、事件の顛末も現実とは異なっているみたいやけど、

二人の語り手であるウィル・デニソンとマイク・ライコーの立場は

まんまウィリアム・バロウズとジャック・ケルアックで、

自身の経験やらに裏打ちされたからこその

説得力あるろくでなしどもの描写なのかなとも思ったり。

 

でも小説としてどうかと言うと、

訳者あとがきに「小説的な処理はまったくない」と書かれているのも納得の様々な不備があって、

特に「ぼくは言った」の連発は、さすがにきつかった。

 

じゃあなんでそんな小説を取り上げたかと言うと、

終盤の味わい深さゆえ。

 

ビートを生んだ殺人事件という説明でもわかるように

物語は現実同様、最後は殺人へ行き着きます。

 

この小説の肝は、殺人が起こってから自首までの、空白の二十四時間。

 

ろくでなしで駄目で、

生きるということを舐めてるとしか思えんくそったれどもの一人、フィリップ・トゥリアンは、

自らしでかした殺人という重みを直視せず、

何事もなかったかのように、

あるいはまるで夢であればいいのにと言いたげに二十四時間を、

ただただ無為に過ごします。

 

過ごすんやけどさ。

 

無意味な時間を過ごしても、からっぽな強がりをひけらかしても、

結果としてこうせざるをえないと諦めるにいたって、

その瞬間の、奥底にある脆さとか弱さとかに、

胸を打たれてしまったんですよ。

 

終盤にいたってもやっぱり小説的な処理がなされていない文章やけど、

であるがゆえに感情が乏しく、

取り返しのつかない現実を前にして

取り返しがつかないからこその呆然とした雰囲気が絶妙に表現されていて、

なるほど平易な文章はこの終盤のためだったのか、とも思ってしまったり。

 

もしそうであるなら、

いやどうやら偶然の産物らしいけど、

抜群の効果を生んでいて、

たまらない読後感をもたらしてくれます。

 

俺が読んでいるのは日本語に訳されたものなので、

訳者の方の力に依拠してるのかも、やけど。

 

娯楽性はほとんどあれへんし、

ろくでなしどもの日常を綴る中盤のだらだらっぷりに途中で読むのやめよかなあと何度も思ったし、

おもろい!とか、よかった!と断言するには何かが邪魔をする小説で、

他人には勧められへんけれど、

読んでよかったなと思える一冊でした。